アリスのしっぽ

何せうぞ くすんで  一期は夢よ ただ狂へ

閑吟集よりー思ひ出すとは忘るるかー

    大学時代、お世話になったゼミの先生は私達ゼミ仲間の憧れだった。お茶の水女子大卒の才媛で専門は歌舞伎。私は卒論で江戸時代、元禄文化浄瑠璃作家近松門左衛門の「姦通(かんつう)もの」(いわゆる不倫もの)を選び、先生からも友人からも相当変わり者扱いされた。

  ゼミの1つ、室町時代の小歌集である「閑吟集」を学ぶゼミは3年間履修した。順番にひとつの小歌を選び、言葉を細かく調べて、時代背景を探り、レポートにまとめ発表する。最後まで行き着くのに何年かかるの?というのんびりした、しかし難しいゼミだった。ただ暗誦して「素敵ね」と言っていればいいものではない。古文研究の基礎を身につけるためのゼミである。ただ、今はそれらの歌をただ読んで「先生こんなこと言ってたな」と40年前!のことを思い出しているので、苦しいながらもいい思い出と言えるのだろう。当時まだ40代の若手研究者でいらした教授も数年前に鬼籍に入られた。

 先生は、前記のいかにも「ちょっとゆがんだ思考をもつ女子」が書きそうなテーマの卒論をとても褒めてくださって、「文章も書き慣れているわね、構成もよかったわ。」とも言ってくださった。これは私の数少ない自慢話の一つである。

さて、閑吟集の内容に話を戻そう。


 85「 思ひ出すとは 忘るるか、思ひ出さずや 忘れねば」

 

これは、卒業してから一番心に沁みいり、折に触れ口ずさんでいる小歌である。
本来は思い人に対して、「思い出すというのは忘れている時があるからでしょ!ずっと思ってくれているなら思い出すなんてことはないはずよ」という痴話げんか的な、なかなかに「重い」恋歌である。だがもともとあまり情熱的な感性を持ち合わせていない私にとって、当時この歌は自分の中では大きな位置を占めなかった。

 この歌を実感したのは、平成8年3月に父が70歳で旅立ったあとである。上の娘がその春に小学校入学、二つ違いの下の娘はもうすぐ年中さんだった。その前の年の秋に七五三のお祝いをなぜか同時にして、着物姿を見せたことが最後の親孝行のようになってしまった。後に母から聞いたのは「お父さん、この子たちが二十歳ぐらいまでは元気でいたい(いたかった?)って言ってたわ……。」進行性の癌だったのでおそらくそれはかなわないことはわかっていたのだろうけれど、その時父が撮ってくれた二人のピースサインの写真は奇跡的ないい出来で、ミニ団扇に姿を変えて今でも我が家に残っている。

 学習塾という商売柄、1~3月はとにかく忙しく、思うようにお見舞いにもいけないうちに父は逝ってしまった。ファザコン気味だった私はとにかく悲しくて、悲しくて、しばらくはずっと父のことを考えてはこっそり泣いていた。その時心に浮かんでいたのがこの小歌である。閑吟集では、このすぐ後に


86「思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし」

 

と続く。なるほど……と実感した。もちろんこれも本来は情熱的な恋の歌である。

 
   時がたち、平成30年7月に母も旅立ち、もう一度この歌がしみじみと心に入ってきた。ただ、ひたすら悲しかった父の時と違い、母は父亡き後一生懸命自分の人生を全うしたかな、という思いがあるので、「お疲れ様」と素直にいうことができた。

 自分の立場も年齢も父の時と母の時では随分違っていた。ある程度母とは語り合えたし、娘達の成長した姿も見せられた。外孫とはある意味楽な存在で、お互い「いいところ」ばかり見せていればいいから角がたたない、いわば「よそゆき」の存在である。しかも私の姉は独身なので内孫はいないから、私としても、母が「プチ外孫自慢」できることが親孝行だと思って、二人の「いいところ」を頑張って伝えていた。そして娘たちにも実家のおじいちゃん、おばあちゃんの「いいところ」を一生懸命伝えていた。

 彼女たちもおそらくそれほど深くは(特に父のことは)覚えてないだろう。しかし、今でも「おじいちゃん優しかったよね」「おばあちゃんともっと話したかったね」という台詞を会話に差し込む。涙もろい母親を泣かせるのは、彼女たちの趣味なのだろうか。父と母のことを娘たちに語るのは、忙しさにかまけてなかなか孫の顔を見せられなかったことへのせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。しかし二人がこうして父と母を「思い出して」くれることで、私自身は報われたような気がしている。
 そして、この閑吟集近松を学んだ日々も、先生の素敵な語り口も、私の中では懐かしい思い出として、時々「思い出す」ものの一つなのだ。

*文中の小歌はすべて新訂「閑吟集」 浅野 建二校注 岩波文庫 より引用した