アリスのしっぽ

何せうぞ くすんで  一期は夢よ ただ狂へ

ほんとの空

  小学生の時から高村光太郎の詩、特に『智恵子抄』という詩集が大好きだった。中でも「智惠子は東京に空がないといふ・ほんとの空が見たいといふ」ではじまる「あどけない話」はとりわけお気に入りの一編だった。 


 彫刻家そして画家でもあった高村光太郎と、女流画家の才媛長沼智恵子は、大恋愛の末に結ばれる。しかしその後、智恵子は徐々に体調を崩し、精神を病み、五十二歳でこの世を去る。彼女の死後三年たって出版された『智恵子抄』には、苦しいほどの深い愛情が全編に満ちている。私が持っていたのは智恵子の切り絵が挿絵として使われている「智恵子抄‐紙絵と詩」(現代教養文庫)だった。
もちろん当時は病に苦しむ智恵子の姿と、そこに至るまでの二人の葛藤などよくわからず、ただただ妻への愛を美しい言葉で詩にのせて紡ぐ光太郎に感動していた。

その反面、写真に残る晩年の光太郎のビジュアルにちょっとだけがっかりしたことは、夢見がちな小学生の失礼な思い込み(あれだけロマンチックな詩を書く人は見た目も素敵な人に違いない!という)として許して欲しい。


  さて、その「あどけない話」からは、故郷福島県を懐かしむ智恵子の心情がさらりと、かつしみじみと伝わってくる。そしてこの詩を読んでから、私は折々私の「ほんとの空」は何なのだろう、どこにあるのだろう、故郷とは?心のよりどころとは?と考えるようになった。
  私は茨城県の片田舎に生まれてそこで十八年、そこから東京目白の安アパートで十年弱学生時代と社会人時代を過ごし、そしてこの地に嫁に来た。気がつけばすでに三十年目である。圧倒的に長い。では私の「ほんとの空」はこの地のどこなのか?と考えたとき残念ながら即答できない。働く場もあり、優しい主人とかわいい猫二匹に囲まれ、娘二人も東京で元気いっぱい一緒に暮らしている。そんな何のストレスもない状態であるにも関わらず、である。

 この地から茨城の実家に車で向かうその途中、左側前方にそれまでよりかなり大きめに、はっきりと筑波山が姿をあらわす瞬間がある。それを見るといつも、ああ、私の「ほんとの空」はやはりここにある、と少々の罪悪感を含んだ確信を持つのである。


  智恵子が見たいと熱望していたほんとの空も「阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空」なのだ。自分が離れてしまった生まれ故郷のイメージは、楽しかった小さい頃の思い出と共に、年ふる毎に美化されながら蓄積していくのだろう。実際そこにずっと住んでいたらここまでの思いは抱かないと思う。そこは私も同じである。

幸か不幸か、私は智恵子と違い芸術的才能のかけらも持ち合わせていないので、彼女の苦悩を推し量ることはできない。すぐれた芸術家同士の結びつきは、たとえそれがどれだけ情熱的な恋愛であっても、どこかにひずみが生じてしまうのだろうか。まして光太郎の父上は稀代の彫刻家高村早雲である。光太郎自身の重圧も相当なものであったろう。智恵子は智恵子で、芸術家としての自分と妻としての自分のバランスの取り方は難しかったのかもしれない。さらに彼女がなにより愛した故郷の実家(酒屋)が倒産する、という出来事も追い打ちをかけたのかもしれない。この数年後、彼女は心の病(今で言う統合失調症)と診断される。
  ただ、「ほんとの空」を求める智恵子の心の叫びは、光太郎といえども心の底からは理解できなかったのではないだろうか。「私はおどろいて空を見る・桜若葉の間にあるのは昔なじみのきってもきれないきれいな空だ」と少々のんきにつないでいる言葉がそれをあらわしている。

では、私の母の「ほんとの空」は、嫁ぎ先の空では無く、やはり実家の空だったのだろうか。そこからはどんな山々が見えたのか?故郷への思い入れはとても強かったので、おそらく彼女なりの「ほんとの空」があったことだろう。四年前に旅立ってしまい、今となってはもう聞くことも話すこともできないのが残念である。せっかく娘(私)が自分の故郷に嫁に来たのに、ほとんどこちらに遊びに来ることもかなわず、今さらながら「ごめんね」と、小さな声で空に向かって呟いてみる。

  (注) 詩の引用文は原文のまま